諱は義雄、室号は青龍窟。愛知県中島郡中野村に生まれる。 明治12年(1879)、 三島・龍沢寺の天眼老師に就いて出家。 岐阜霊松院の聨芳学校卒業後、京都天龍僧堂の橋本我山老師に参じ、 明治33年、 師の示寂により天龍寺を退き、静岡県御殿場の建長寺派青龍寺に住す。 以後、鎌倉円覚僧堂の釈宗演老師に参じ、師の印可を受く。 大正3年(1914)、京都嵯峨の臨川寺に転住、大正7年、奥山方廣寺派管長に就任。 山口玄洞氏の寄進によって設立された 京都市寺町の仏教会館と方廣寺を 拠点として日本国内及び台湾・朝鮮・中国東北・南洋を布教飛錫。 昭和2年(1927)、 方廣寺を辞し、京都に栖賢寺を再興して退任後も布教に従事し、 昭和20年3月21日、巡教途上の上海で病を得て遷化。 75才。 著書に「碧巌録講話」、「臨済録夜話」、「禅道俗話」等多数ある。